目覚めたら海の中で、私の足はなくなっていた。
そう、人魚になっていたのだ。
暗く輝く海を私は泳いだ。当たり前だけど、海は大きくてそして静かだった。
新参者を遠巻きに眺めるように、たくさんの先輩達が堂々と暮らしていた。
海の中にも、満月の光が輝いている。
私は怖くも淋しくもなかった。なんだろう。
当たり前な気がして、自由な気がして、
とても早く泳げることに夢中になっていた。
「魔法はね」
「魔法はね、いっぺんに一つしか使えないんだよ」
耳元で声がして、私は泳ぐのをやめた。
暗闇に立ち止まる。(正確には立ち浮かぶ、だ。)
おもちゃのピアノが鳴るみたいなかわいらしい音がして
私の周りをゆっくりと回りながら声の正体があらわれた。
さっきまで人間だった、という自覚がある私から言わせると
彼は青い色をして、小さくて、人間で言うと3歳くらいの男の子で
くりくりした目をして、とても賢こそうな表情で私を見ていた。
「聞いてた?」
「うん。聞いてた。」
「じゃあ、大丈夫だと思うけど、君は今とっても不安定な状態だから、気をつけなきゃいけないよ。
これから彼らがやってくるけど、大事なことをちゃんと一つだけ心に思い浮かべて、惑わされないようにして。」
「うん。。。。。わかった。」
「なんで今、間があいたのさ。」
「うん。」
「。。。。ほんとに、わかった?」
彼があんまり心配そうな顔をするので、私はちょっと困った。
「ここ、どこ?」
「うみ」
「、、、、しってるよ。」
「じゃあなんで聞くの?」
「わたしね、今足なくなってヒレみたいなのついてるけど、さっきまでは君みたいに足があって、暮らしてたのよ。目が覚めたら、うみのなかにいて、とってもびっくりしたけど、あんまり気持ちがいいもんだからこうして泳いでたの。ほんとは、どうしたらいいかわかんないの」
「ぼくにはそうは見えないけど。」
「ぼくには、君はちゃんとここにいるように見えるよ。それに、君はどう振舞ったらいいかわかっている人に見える。本当のことは、言葉にしなくてもちゃんと伝わるし、たいていの人が理解していて、思った通りになるよ。」
「意味深なことをいうなぁ。それに。」
「それに彼らがやってくるって、どういうこと?」
「彼らだよ。」
彼は言って、きゅっと口を結んだ。
「彼らはぼくたちの心の後ろ向きなところを、とても敏感に感じるんだよ。心配をしすぎたら、みんな疲れてしまうだろう?心がかさかさになって、いいことを思い浮かべられなくなる。誰だってそういう時や、そういう想いを持っているものだけど、この海は、そういう取り越し苦労や心配事が最後に行き着く場所なんだ。」
私は急に自分が小さくなったような気がして自分で自分を抱きしめた。私が目覚めて人魚になってそんな海にいるってことは、一体どういうことなんだろう。
そんな私の気持ちを読んでか、彼はこう続けた。
「でも安心して。この海に漂う想いは、実現しなかった想いだから。良いことのほうが強いんだよ。みんな本当は知っているはずなのに、たまに信じきれなくなった時に、悪いことが起きるんだ。本当だよ。」
「でも、、、」
「でも?」
「でも君はなんでここに来たんだろうな?そして、全然平気そうなのはなんでだろう。」
「平気じゃないよ!」
「いいや、平気さ。だって、ちゃんとここに居るじゃないか。みんな消えてなくなっちゃうんだよ。この想いに押しつぶされてさ。本当は、全然怖いものなんかじゃないのに。」
ぽろんぽろんとかわいらしい音をさせながら、全くこの子は恐ろしいことを言う、と私は思った。
「みて、あの魚たちは一生懸命みんなの想いを食べてくれてる。遠くで鳴いてるあのクジラも。彼は長いあいだ生きているから、とっても賢くて、この海の、この想いのプロフェッショナルだよ。彼らが毎日おいしく食べてくれるおかげで、悲しい想いはあふれずにこうして海でいられるんだよ。ほらね、安心したでしょう?」
どどーーーーーん。
私たちは、はっと息を飲んで話すのをやめた。
どどーーーーーーん。
どどーーーーーーん。
何か大きな悲しみの塊が、誰の手にも負えないような大きな悲しみと絶望のうねりが
この最果ての海の遠くから響いてくる。
どどーーーーーーーーーん。
どどーーーーーーーーーーん。
どん。どどーーーーん。
どん。どどーーーーーん。
逃げても隠れも無駄なことはなんとなくわかっていた。
小さな彼がそばにいてくれることだけが今の私の心のよりどころだったけど、
ええと、なんだっけ、彼が教えてくれたこと。
魔法は、いっぺんに一つしか使えないっていうことと、あとは?あとはなんだ?
凄く遠くのほうに、黒く大きな一群が、見えた。
彼らは猛烈に悲しんでいた。
失った何か。取り返しのつかない何か。どうしようもない何か。
納得できない無言の叫びとともに、こちらへ向かって近づいてくる。
最果ての海で、果てしない絶望が、早くも遅くもないスピードで
紛れもなく私たちを目指して今、音もなく近づいてくる。
なんだろう、言葉にするとしたら、これは「死」にものすごく近いんじゃないか、
と私は厳かな気持ちで待ち受けた。
受け入れる、とかそういうんじゃないんだ。
そういうスピードが追いつかない何か圧倒的なものに直面していることだけはわかった。
もう、試されるとか、そういうレベルじゃないけど、とりあえずわたしは大丈夫。
とだけ呟いて、ぎゅっとこぶしを握った。
彼らは言葉にならない声で、私に訴えかけた。
「かなしい」「つらい」「かえして」「うそつき」「ひどい」
「どうしたらいいかわからない」「たすけて」「わからない」
「さみしい」「くるしい」「なんで」「どうして」「だめだ」「もうだめだ」
「いたい」「いたい」「いたい」「いたい」「いたい」「いたい」「いたい」「いたい」
悲しみと絶望の波に飲まれそうだった。
小さな彼がささやいた。
「大事なことだけ本当に願って」
黒い塊が私に手を差し伸べた。
彼らは、泣いていた。
「悲しいの?」
「悲しい」
「何かを失ったの?」
「わからない」
「あなたがわからないならわたしだってよくわからないけど、私はあなたを助けたい、と思う。」
黒い塊がぐっと息をのんだ。
「嘘つきだ!」
「嘘じゃない!助けたいと思っているのは本当!でも助けられるかどうかはわからない。それとこれとは別のはなしよ。こんがらがっては駄目。」
駄々をこねるこどものように、黒い塊は頭を抱えて暴れた。
海が轟々と揺らいだ。
私は頭を撫でるように手を伸ばした。その時、わたしはとても大事なことを思い出して、もうよくわからないからそれを今、伝えようと思って、大きな声で言った。
「私のおばあちゃんが死んじゃった時。私のおばあちゃんが死んじゃった時、私はとても悲しかった。おばあちゃんがもう人の形ではいられなくなって、棺に入れられてもうすぐ焼く、っていうときに、みんなで棺に花を入れたの。花よ、わかる?海にも咲くけど、陸に咲いているでしょう。いろんなところにあっていろんな色でいろんな形で素敵なにおいがして、あなたたちも知ってるあの花よ。その花で一杯にして、おばあちゃんを見送ったの。私その時思った。もし花がなかったらって。もし花がなかったら、花の代わりに棺に何を入れていいか私には全く分からないって。花以外に何も見つからない。だから花ってすごいのよ、でも花だけじゃないよ、きっとみんなそういうものなんだよ。」
黒い塊は泣いた。わんわん泣いて、海は揺れて、私と小さい人も揺れた。
揺れは、だんだんとおさまって、黒い塊は、心なしか少し小さくなったように思えた。
黒い塊は、私たちなんかいなかったかのように、さらに遠くを目指してまた、歩き始めた。
悲しみや、絶望は、消えなかった。
随分と長い時間、私と小さい人は黒い塊を見おくった。
「もう行くね。」
小さい人が当たり前のようにポロンというので、私は随分とびっくりした。
「行くんだ。わたしどうするの?」
「わかんない。」
鈴が鳴るように笑って、くるくると楽しそうに回った。
「何よ、楽しそうにしちゃって。」
「だって、君は立派だったから。」
「ありがと。」
「ねえ君。君の本当に一番大切なものってなんなの?僕はなんだか、そのおかげで君はここにやってきて、そうしてこの想いたちに押しつぶされもせず、世界の悲しみと絶望にちょっとだけ触れたような気がするんだよ。」
「あのね、本当に一番大切なことはね、教えないでじっと心の中にとっておくものなのよ」
「そうか。」
ぽろん。ぽろん。
おもちゃのピアノが楽しそうに弾んで、くるくるまわりながらこの広い海に消えていった。
「またね」
「またね」
海は涙でできてるからしょっぱいのかな?
魔法はいっぺんに一つしか使えないってなんだったのかな。
いっぺんにっていうか、わたし魔法なんて使えるのかなぁ。
でもこの最果ての海は、あの子やあのクジラや魚たちがいるから大丈夫。
悲しみや絶望の黒い塊も、この海には必要な存在だ。
気がつくと浅瀬にたどり着いて、にょきっと足が生えてきた。
なんだか簡単。
私はひたひたと砂浜に上がって、今来た海を一度だけ振り返った。
「何かこういうときは、一度だけ、って感じするよね。」
誰に言うともなくつぶやいて、髪の毛を結んだ。
さあ、行こう。
私の一番大切な人に会いに。
魔法はいっぺんに一つだけ、って教えてあげなくちゃ。